The Tokyo Korean Christian Church in Japan
キリストの喜び
私たちキリスト者の生活にとって喜びは、不可欠です。
イエス様は、天の父の愛を私たちに示して下さいました。
それは、「イエス様の喜び」が私たちの喜びとなるためです。
「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」ヨハネ15.11
この喜びとは、私たちが天の父から無条件で愛されていることの喜びです。
その愛を知ることの喜びです。
この喜びは、私たちの魂が感じるもので、地上のものとは異なります。
私たちの感情が感じるものではありません。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」1テサ 5.16~18
パウロが言うときの喜びは、天の父の愛を知ることの喜びです。
心の満たしとも言えるものです。
私たちは、この「喜び」をよく取り違えてしまいます。
私たちが友達どうしで楽しんだり喜んだりするときの喜びとは、別のものです。
私たちが言う「喜べない」とゆうときのものとも違います。
私たちは、悲しいときには喜べないと考えています。
しかし、天の父の無条件の愛を信じれば、私たちは、悲しみのときでも喜ぶことができるのです。
ときとして、
私たちは、悲しみの真中(まんなか)で喜びを見つけることがあります。
私たちの現実よりもはるかに大きな霊的現実に目が開かれるとき、
私たちは、苦しみの中でも希望を持って生きることができます。
ときとして私たちが大きな喜びを発見するときは、悲しみのただ中であったりするのです。
喜びは、自然と感じるものではありません。
喜びは、日々選びとるものだと思います。
私たちの人生は、悲しいときも嬉しいときも嫉妬するときも幸せに酔いしれるときもあります。
その中で私たちは、「恨み」を選びとるか、「喜び」を選びとるか迫られます。
辛い選択ですが、これは神様が私たちに与えた自由です。
私たちは、喜びを選びとるように招かれています。
この「喜び」は、霊的なものです。
イエス様は、地上にあるときにはいつもこのことを私たちに教えられました。
「喜び、感謝、祈り」は、一体として存在します。切り離しては、考えられないものです。
私たちは、喜びと悲しみを区別したがります。
悲しんでいるときは、喜べないし、喜んでいるときは、悲しめません。
私たちは、喜びと悲しみは、相容れないものと考えています。
しかし、イエス様は、私たちと対照的でした。
真の喜びは、悲しみの中に隠されていることを示されました。
十字架は、死といのちを、苦しみと喜びを、敗北と勝利を私たちに示します。
イエス様は、私たちに言われます。
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」ルカ24.25~26
私たちは、物分かりが悪く、心が鈍く、信じられない者たちです。
私たちの招かれている道は、苦しみを受けて栄光に入る、そうゆうものであると言われます。
私たちは、悲しみの中で喜びを選びとるように招かれています。
私たちは、暗闇の中にある光に引き寄せられます。
私たちは、絶望の中にある祈りに引き寄せられます。
私たちは、現実の大きさを知っていますが、
絶望よりも希望を、不信仰よりも信仰を、恐れよりも愛を選び取るように招かれています。
喜びは、楽観主義から生れるものではありません。
周りの環境から生れるものでもありません。
喜びは、イエス様がすでにこの世に打ち勝たれたことを知る霊的知恵から生れるものです。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネ16.33
私たちの恐れ、不安、恨みのもとは、すでに力を失っていること、
イエス様に従う私たちにとってそれらは、無力で幻想にすぎないことを悟らなければいけません。
私たちは、いつも幻想に苦しみます。
そんな私たちに天の父は、「恐れるな」と言われます。
暗闇より神様の光の方が、人間の想いよりも神様の真実の方が、死よりも神様の愛の方が現実的です。
喜びと希望は、切り離せません。
希望は、願望とは異なり、喜びは、幸せ感とは異なります。
願望と幸せ感とは、この世から受けるものですが、
希望と喜びは、神様からの霊的プレゼントです。
私たちが希望や喜びと思っていたことが、実は、極めて自己中心的願望だったりすることがあります。
「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」マルコ10.37
私たちは、いつも間違った想いを持ちやすいのです。
私たちの願望は、希望と喜びとはかけ離れたものです。
私たちの願いは、いつもそうです。
私たちは、自分が何を願っているのかわからずに求めてしまいます。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」マルコ10.38
イエス様は、いつも私たちの間違いを叱ったりせずに優しく否定してくださいます。
そのたびに私たちには苦痛が伴いますが、
そのたびにキリストの腕の中にこの身をゆだねていけるのです。
嘆きと喜びは、そんなに離れていません。
私たちは、痛みを自分のものとして受け入れ、キリストに従うとき、
キリストの言葉で言えば「自分の十字架を負い」キリストに従うとき、いのちの狭き門をくぐるのです。
キリストに従うとき嘆きは、いつしか喜びに変わります。
キリストと共に負う嘆きは、キリストと共にある喜びに変わるのです。
どんな苦難や逆境の中にあっても私たちは、キリストにあって希望をもち、
あの方が共におられることによって喜ぶのです。
思い出してみてください !。
私たちが希望と喜びに溢れていたときの多くは、苦しみの中にあったときだったことを。
人に捨てられ、絶望と孤独の中で、
「神様あなたこそ私の希望と喜びです。」と叫ばざるおえなかったときだったことを。
私たちの本当の支えは、この世のものでないところにあると知ったときだったことを。
この世にだまされては、いけません。
私たちは、何度もこの世にだまされてきました。
しかし、そのたびに少しずつ神様のみ腕の中にこの身をゆだねていけるようになるのです。
イエス様は、「キリストの喜び」を私たちの喜びとされようとなさっています。
天の父が私たちに一番求められるのは、天の父の無条件の愛を信ぜよとゆうことです。
イエス様は、私たちが天の父から愛されていることを繰り返しお話になりました。
しかし、信じきれないのが私たちです。
「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」ヨハネ4.48
私たちは、本当に強情な者、疑り深い者です。
ですから、イエス様は、十字架と復活を通してキリストの愛を示されました。
キリストが苦痛を受けなければ私たちは、信じないものなのです。
キリストの苦痛によって私たちは、思いわずらいや暴力から解放され、
永遠のいのちを得るものとされました。
追伸、
私たちは、自分自身の苦痛に心を奪われ、その中で心乱れます。
しかし、
私たちが苦痛を受けるはるか前に、キリストが苦痛を受けられたことを思い出しましょう。
東京教会のためにキリストが苦しみを耐えられたことを思い出しましょう。
どんな状況のときもキリストの愛を忘れないでいましょう。
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