The Tokyo Korean Christian Church in Japan 
 
 
		   
		       	 
                      
			
			
               
                	 
				
	
		 
		
			
		 
		 
	 
   
     
     
   
   
     
                     
                         
                           
						   
                                祈りの中で世界が変わるとき、                                 
 
                           
                          
                            
 祈りの中で世界が変わるということは、多くの人が体験することです。 
私も、このことをヘンリー・ナウエンとマザー・テレサの会話をきっかけに知らされました。 
 
ヘンリー・ナウエンの本に、ナウエンとマザー・テレサの会話が記されていました。 
彼がマザーに面会し、いろいろな苦しみ、悲しみ、困難を延々と打ち明け相談したときのこと、 
マザーは黙って聞いていましたが、ヘンリーの話が終わったとき静かに一言、 
「あなたは毎日1時間お祈りしていますか。」とヘンリーにたずねたそうです。 
それを聞いてヘンリーはそれは私の求めている答えじゃないと「ムッ」としたそうですが、 
まだ彼の後ろにマザーの面会人が沢山いたので、そのときは丁重に挨拶をしてマザーと別れたそうです。 
しかし、後になって考えたとき、あのマザーの問いこそヘンリーのすべて問題の答えであったと、 
彼は悟らされました。 
 
そこに、マザーの経験を通して伝えたかった大切な答えが凝縮されていたのです。 
人生の中で、苦しみ、悲しみは必ずやって来ます。 
しかし、毎日の神様との「交わり」を通して苦しみ悲しみは、 
夏の日の陽炎(かげろう)のように蒸発してしまいます。 
「あなたは毎日1時間お祈りしていますか。」マザーのこの問いかけのなかに、 
私たちの人生におけるすべての苦しみ悲しみの答えがあると私は今確信しています。 
 
私も大好きな二人、ヘンリーとマザーに招かれて、「秘密の祈り会」をこっそりと始めました。 
秘密なので詳しく言えないのですが…、 
聖霊様に助けられて、約1年半になりました。 
 
祈りの中でずっと示され続けたのが「からし種一粒ほどの信仰」でした。 
 
マタイ17.14~20 
「一同が群衆のところに行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、 
息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。 
お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」 
イエスはお答えになった。 
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか、いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。 
いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここにわたしのところに連れて来なさい」 
そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。 
弟子たちはひそかにイエスのところに来て、 
「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。 
「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって 
『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 
 
この聖書の中で、イエス様は「信仰さえあれば何でもできる」とはおっしゃっていないように思えます。 
「できないのは信仰がないからだ」ともおっしゃっていないように私には聞こえます。 
「信仰があれば、山をも移動させられる」とも言っていないように私には聞こえます。 
弟子たちは果たして信仰がなかったのでしょうか。 
てんかんの息子の癒し(いやし)ができなかったからといって、 
弟子たちに本当に信仰がなかったと言えるのでしょうか。 
弟子たちは父親の願いに答えようと、半信半疑だったかもしれませんが、 
それでも一生懸命神様にお祈りしたのに違いないと思います。 
この弟子たちの信仰に対して、信仰がないというのはちょっと私には言い過ぎのような気がします。 
 
ですから、「からし種一粒ほどの信仰があれば」とイエス様が言われたのは、彼らの信仰のなさではなく 
彼らの信仰に欠けていたものを指摘されたのではないかと、思うようになりました。 
苦しみ、悲しみのいやしを求める祈りの中で、もう一つの信仰が浮かび上がってきます。 
それは、パウロの書簡にある「わたしの恵みはあなたに十分です。」という信仰です。 
 
Ⅱコリント12.9 
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。」 
 
祈りの中で神様の臨在に触れるとき、 
あれ程までに苦しんでいた思いが、悲しみが「フッ」と消えてなくなるときがあります。 
そのとき神様の大きな愛に包まれ「わたしの恵みはあなたに十分です。」という思いが与えられます。 
そして心の中は神様の平安で満たされ、目の前の苦しみ、悲しみが消えていることに気がつきます。 
たとえ苦しみ、悲しみが残っていても、神様の愛の中にあるということで納得できるようになります。 
そして、神様の大きな愛を喜ぶことができるようになります。 
つまり苦しみ、悲しみの中で神様の大きな愛と平安を与えられるということです。 
からし種一粒ほどの信仰とは、「わたしの恵みはあなたに十分です。」という信仰のことではないかと、 
祈りの中で思うようになってきました。 
 
まさに、私の心の中で苦しみの大きな山が移ったのです。 
「この山に向かって移れと言えば移る」と言われたイエス様のお言葉が、 
私の心の目の前で成就されました。  シャローム ■Attached file: 2009.05.17.-1.JPG                               
                           
                          
                                 
                           
						
							  
						 
						
							  
						 
                        
      
         
          
             
                 
                   
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