The Tokyo Korean Christian Church in Japan
祈ること。生きること。
かつて私は、祈れない時期が長くありました。
祈ることは、たやすいことではありません。
神様が私たちの人格の中に入って来て、
私たちが見たくないものまで見て、触れてくるからです。
私たちの自我にとっては、それは危険なこと、避けたいことと理解してしまいます。
私たちは、自分の大切なものにしがみ付く傾向があります。
それを失ったら自分が自分で無くなってしまう恐れを抱きます。
それは、私たちの偶像とな私たちを支配し始めます。
「偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない。
彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。」イザヤ44.9
私たちの偶像は、それを手放すことを私たちに恐れさます。
そのとき、祈りは痛みを伴いやがて私たちは、祈れなくなります。
自分より幸せな人を妬み、無視する者に仕返しをしたいと思います。
返事のないメールに失望し、通りすがりのそむける視線に腹をたてます。
心にいろいろな思い煩いを持っていながら、
それらとは無関係を装って生きています。
嫉妬、失望、復讐、嫌悪の思いに捕らわれつつも、
私たちは、それらを握りしめながらもがいています。
私たちは、闇の力に執着してしまうことがあります。
その中で自分自身を失い、心を閉ざしてしまいます。
私たちの心を癒そうとする方に背を向け心を閉ざし、
暗い中に動けず、石のように固く立ちつくしてしまいます。
どうしたら心を開いて祈れるようになれるのでしょうか。
それは、かつてマリアや羊飼いたちが、また墓場で女たちが聞いた
「恐れるな」とゆう小さな声に心の耳を傾けることです。
私たちの心の奥に入ろうとするあの方を
私たちがしがみ付いている執着を手放すように言うあの方を恐れないことです。
私たちの恥部を見られることを恐れてはいけません。
それをイエス様に差し出すことを恐れてはいけません。
私たちの弱さ、惨めさ、罪深さを差し出すことです。
恐れを少しずつ手放すとき、私たちの心は、少しずつ開かれていきます。
見せかけを装う不自然さ、醜いものを隠しておくことは、私たちの魂をくたくたにさせ、
祈りを苦しみに変えてしまいます。
私たちの長い巡礼の旅の中で、神様への信頼の旅の中で、
執着の後には、再び執着が現れ際限のないもののように思われるときがあります。
しかし、私たちの心をイエス様に開けば、
イエス様が私たちの罪を吹き飛ばしてくださいます。
その時、私たちが捕らわれていた執着は単なる幻想に過ぎないことに気づきます。
やがて、
私たちは、祈ることは喜びであり、努力の要らないものであることに気づきます。
生き生きと活力にみち、平和なものであることに気づきます。
祈ることは、私たちが生きることであり、
神様の前に私たちの魂が歩むことであると心が悟ります。
イエス様と共に生き、喜び、イエス様に希望を抱くことなのです。 シャローム
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