The Tokyo Korean Christian Church in Japan
この世の生活の中に働く神様のみ手
苦難と迫害の中にある弟子たちは、
イエス様のみ言葉を思い出すことによって
その場に神様のみ手が働いておられるのを発見し
生きる力を見出しました。
それは、暗い世にあって彼らに希望と確信を与えました。
その希望と確信は、「約束の地がまだ私たちの前方にある」と招く主のみ声に従順に従い
前進するように彼らを励ましました。
弟子達は、その声に従い、自分を捨て自分の十字架を背負っていきました。
主に従うとは、狭い道を歩むとゆうことです。
その声は、私たちをも同じように励まします。
ところが私たちは、自分を捨てるよりも自分を認めることに忙しく、
自分を捨てるより自分の考えを行うことに忙しいのです。
代価を支払い、自分の十字架を背負わなければ広い道しか歩けません。
その道の行き着くところは、永遠の滅びです。
今私たちは、弟子たちが歩いたような狭い道を歩いているのでしょうか。
沈黙と密室の祈りにおいてこそ、キリスト者はキリスト者たりえます。
神様のために私たちの時間を使うことは、
まさに私たちの人生の重要な行為の一つです。
私たちに与えられた時間は、素敵なタラントです。
私たちの召命は、私たちの苦しみが神様の栄光への道であるとイエス様を通して示すことです。
苦しみを分ち合いながら、私たちの人生の中で勝利された福音を証しすることです。
私たちがしばしば忘れがちなことです。
一人一人がそれぞれ苦しみをかかえています。
家族、友人、共同体の不和について…。
社会の中で人々がもがいています。
私たちは、この苦しむ社会の構成部員の一人です。
この苦しみをイエス様は、死に至るまで私たちとともに苦しまれました。
キリスト者の生活は、古い自分との絶え間ない葛藤です。
その中でイエス様は、ご自身と共に私たちを墓に降ろすように招かれます。
「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、
岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。」
マタイ27.59~60
墓の暗闇にイエス様が運び込まれるのを見つめながら、
欲求不満、肉欲、嫉妬、利己的願望をもって私たちも、その暗い墓に入ります。
暗闇は、トンネルでありそのむこうに目的の地があると信じ祈りもとめます。
「朝早く、まだ暗いうち、 ~ 墓から石が取りのけてあった。」ヨハネ20.1より
「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」マタイ28.6
巨大な石だけが脇に置かれた、空っぽで、単純で、清く、慎ましやかなその空間。
主と共に迎えた新しい朝の光の中から、私たちの新しい人生は始まりました。
イエス様は、私たちの狭い見方と対決し
私たちの生活の中に神様が導きのみ手をお与えになっていることを発見するように臨まれます。
「これらのことを話したのは、その時が来たときに、
わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」ヨハネ16.4
み言葉は、この世の生活の中に働く神様のみ手を思い起こさせます。
キリスト者の歩みは、自分の弱さ、惨めさ、限界に圧倒されているにも関わらず、
主の霊がその人を通して輝き、他の人々に光を与えるのです。 シャローム
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